White Elephant

音楽の旅プロジェクト『White Elephant』の記録。

僕の星、素敵な君

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映画『White Elephant』の再編集を始めて三週間。それはちょうど立て続けに訪れた、大切な人達の死と向き合う時間の流れに重なり合って進んでいる。
 
偶然彼らはそれぞれにこの映画の要となる登場人物であったので、再生される絵の中の生き生きとした面持ちや、意図せず遺していった言葉を繰り返しながら、私は日々冷徹に、彼らと、彼らと共に居た自分の姿を見つめ、切り刻んでいる。つい溢れた涙さえ「それはただの体水である。」と即座に脳が認識して無視し、判断を積み重ねる。
 
あまりにも冷たいので、私は果たしてまともな人間なのだろうか。と恐ろしくなるが、対象が大切な存在であればあるほど、また、他でもない自分を水先案内人として立たせた物語であればこそ突き放し、正確に見定めなければ、他者に届く連なりは生まれ得ない。例え夕焼けに心を揺らされたとしても、連ねる際にはその全てを座標に置き換えるような意識で、幾何学的に捉える必要があると思っている。それは映画全体において本当に必要な波動かどうか。繰り返し、繰り返し、全体を見通すこと。
 
世界は、自分を遥かに越える。ところが、その世界と対峙し、理解をする媒体となるのは唯一それぞれの体のみである。となればこいつを信頼せずに世界を歩くわけにはいかない。が、最大の疑いを持つべきもこの体だ。
 
色盲。という病気がある。その病を抱えるひとにとって色は、限定的である。あるひとは、僕の眼には紫色だけが飛び込んできて、他の色は皆灰色に見えるのだと教えてくれた。だから、目立つように書かれたはずの標識やサインが意味を成さないことも多いのだと。蜜蜂には赤が見えない。馬の目は横についている。だから前の真ん中が見えない。夜行性の動物達には闇の中でも物が見えるし、おとうさんが恋人を作って逃げて行った家の子どもには、キスをしている恋人同士がおぞましく見えたりもする。そもそも眼球自体を取り去ってしまい、世界は「見る」ものでなくなった友人もいる。その全てが本当だ。
 
 
幼い頃からの私の願い。それは、みんなで一緒に生きていくこと。
 
父がいて、母がいて、それぞれの眼差しがあって、どれも本当で、なのに彼らはよく喧嘩をしていたので私はとても哀しく、その度に、それぞれの眼から見た世界を想像し、両方を思い浮かべ、同時に自分の眼が捉まえた世界の色とを三つ並べて、考えた。それはあくまでも私というフィルターを通した「想像」に過ぎないのだけれど、それ以外に自分ではない体に想いを馳せる術はないので、ではその「想像」が出来うる限り客観的である為にはどうしたらいいか。という課題は、今日に至る迄、工夫を重ねてきたうちの最上位にある。
 
まったくもって、自分というのは、疑わしい。
 
けれども、私の世界は、私にしかわからないから、せめて自分ひとりくらいは、肩を叩いて信じてやってもいいかな。と思いながら、私は私の眼が見つめたものを切り取り、しかしやっぱり疑わしいので、その私を見つめる幾つかの眼が見つめた私をさらに切り取り、この映画は、連ねた。共同監督での制作を進めてきた理由の一番もそこにある。
 
疑って、疑って、疑って、視点を重ねて見えて来るものは、なんだろう。
 
実は、祖母が死んだ。
 
20年以上一緒に暮らして来た母の母、私を「大親友」と呼んだひとが、亡くなった。何回か前に書いた、ウタウタイの先輩・大藪さんが亡くなる10時間くらい前。夜中の2時半くらいだったんじゃないか、と検死官が教えてくれた。最初の発見者は母で、私は母の叫び声で眼を覚ました。別に、事件があったわけじゃない。病院が嫌いで内科にかかっていなかったので、死亡診断書をもらうのに、警察の手が必要だっただけなのだが、
 
映画のメインキャラクターでもあった彼女についてのお話は、果てしないので、まだまだゆっくりとお伝えしていくことにいたします。
 
もちろん、大藪さんのことも。みんなのことも。
 
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〈近々のライブ〉
歳納と年始まりは渋さ知らズ』として歌ったり踊ったりします。
 
12/27は江古田バディ
1/12は渋谷ON-EAST
 
 映画の編集が落ちついたら、ソロやWhite Elephant音楽隊も、ブッキングしていきます。販売物も諸々準備中。お楽しみに。